由来 【詳細】





山ノ神神社由来 建立245年(平成10年建立鳥居より) 市井の個人神社として長年祀られていた。その大元は北方3kmに有ったらしい。 (郷土史家 奥田盛人氏談) 明和五年(1768)創始 

山の神 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場す る神。別名 和多志大神、酒解神。
実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民 とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。こ のような話の原像は『古事記』、『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する。
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の 神という2つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民に とっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源 であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
主に東北・北海道地方において、12月12日(一部で1月12日)には山林での作業を一切行わない林業者の慣習が残っている。森林組合などで はこの日に祈願祭や忘年会、新年会を催すなど、祭の日の名残りが見られる。
帯の神様 ネット検索も記述なし 山ノ神神社では左端に鎮座 子供が生まれると単衣に名前を書いて奉納してある 単に和タオルに名前を書いて 奉納も有る
天神様 天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神 道の信仰のことをいう 天神様を飾るのは学問もそうだが習い上手という子供の成長に一番大事なものを願い、今でいう習い事・勉強・習字・ピア ノ・スポーツなどいろいろな分野で人生の道を極めてもらいたいという事です。「学問の神」の他、「芸能の神」「正義の神」とも呼ばれている
御霊代 鏡 神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神 殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降り る(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という
御神木 神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内 包する木々。御神木とも称される。 一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、 伐採をしないとされる木を指す。 この他、神社の所有地、民間の所有地にあって民間伝承などの特別な謂われのある木を指す。神社の造営に当 たってその木材となる植林または自生する特別に伐採された木を指す場合もある。
翌檜、羅漢柏アスナロ(翌檜、羅漢柏(らかんはく)、学名:Thujopsis dolabrata)は、ヒノキ科アスナロ属の常緑針葉樹。1属1種。日本原産。青森県では「ヒバ」(変種のヒノキアスナロを指す場合もあ る)、秋田県では「ツガルヒノキ」、岩手県・山形県では「クマサキ」、石川県・富山県では「アテ(貴、阿天)」、新潟県佐渡島では「アテビ」 などと呼ばれ[2]、昔から植林されている。
楓 カエデ(槭、槭樹、楓)とはカエデ科(APG植物分類体系ではムクロジ科に含める)カエデ属 (Acer) の木の総称。モミジ(紅葉、椛)とも呼ばれるが、その場合は様々な樹木の紅葉を総称している場合もある。
ムクノキ(椋木、椋の木、樸樹、 Aphananthe aspera)はニレ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはムクエノキとも言う。成長が比較的早く、大木になるため、日本 では巨木が国や地方自治体の天然記念物に指定されている例がある。また地名や名字(椋本など)となっている例も多い。APG植物分類体系では アサ科に分類される。葉と展葉とともに葉の根元に淡緑色の小さな花を咲かせる。花の後に直径7-12mmの球形で緑色の果実(核果)をつけ る。熟すと黒紫色になり食べられる。味は非常に甘く、美味である。
山の神神社直近を流れる元禄井手 元禄井手から望める嘉永井手 その高低差79m 唯一の場所
この用水路は元禄井手の水不足を補強するため開削された嘉永井手という。水源は吉無田水源より取水した清水井手(改修して元禄井手という)の 下流と、山都町境を流れる尾多良川、さらに大矢野原より流れる亀谷川の三渓流を合わせて873メートルのこのトンネルを貫流して矢形川の源流 と合流させ、上田代の杉園堰より取水して南田代の屋敷部落で元禄井手と合流させて豊かな水勢となし、南田代から西上野を経て滝尾、木倉の一部 に至る。総延長28キロメートル、受益面積は300ヘクタールに及んだ。この難工事を直接担当した当時の上益城郡代上妻半右衛門、木倉郷総庄 屋光永平蔵、測量設計と工事管理者楠田順喜以下の役職者と難工事に完遂した石工久五郎をはじめ労役に苦しんだ村人たちの功績が痛切にしのばれ る。[所在地]     御船町大字田代
吉無田水源のあらまし 吉無田の森林は、江戸時代は肥後細川藩の藩有林、現在の国有林である。 その昔から、この地の下方は丘陵地帯であり、 飲料水や農耕用水等の不足に苦労した土地柄であります。その為四百年近い昔の寛永から天和年間にかけて約20Kmにわたり元禄井手が作られま した。しかし、もともとが乏しい渓流をかき集めた用水であり、上流の山々が草原である為、水源の八勢川そのものに水がなく、水需要の増えつつ ある中で人々は水不足に苦しんでいました。上益城郡御船町教育委員会リンク了承済
 そこで、文化12年(1815年)に当時の山支配役が郡奉行と相談して一大植林の事業をおこし、弘化4年(1847年)にかけて240万本 の木が植えられ、ついで慶応3年(1867年)までに植林が続けられました。
こうして半世紀のちに、植え付けられた杉や檜がうっそうと林立し、水をたくわえ、それが八勢川にあふれ出し、元禄用水をうるおしたばかりでな く、更に新しい用水を作らせるようになった。それが嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)にかけて作られた長さ28kmにわたる 嘉永井手である。
 こうした壮大な事業により現在の国有林が作りあげられ、下流域の人々の生活をささえています。その事業に携わった人々の業績は、今も国有林 内や下流域の数カ所に記念碑等によりたたえられたいます。私たちも、こうした歴史の中にいだかれて生活しています。 皆で森林や水を大切にし ていきましょう。九州自然歩道森林管理局    熊本森林管理局
本来耕作用水が不足し稲作も出来ない土地に元禄井手を施設したことにより畑作から稲作が出来るようになり干無田(ほしむた)乾いた田が無いと 言う地名が頷ける 田代大地300ヘクタールを潤し 米を肥後藩へ年貢として納めるようになった。